器と心 辻村史朗 (2/4)
若き日の辻村史朗が残した手記。茶碗を作ることを志した若き日の辻村史朗が感じ、考えていたこと。45年以上の月日が流れた今も、同じようにモノづくりに向かう。
器と心 辻村史朗
Part2
焼物を始めて、三年になろうとしています。何んの修業もせずに、 窯場を見たこともない、そんな自分が、たった一さつの本をたよりに、初めはなかなかうまくいきませんでした。時には、こんなこともありました。窯の中は、なまやけで外側のテントが燃えてしまったこともあります。さいわい大事には、いたらずにすみました。以後、窯の中より外の方へ、細心の注意をはらっております。それから、こんなこともありました。テントのかわりにスレートで屋根を作ったまでは、良かったのです。が、四、五日のうちに、何十年に一回という大きな台風があり、屋根は吹きとんでしまい、窯はびしょぬれになってしまいました。しかし、ぬれたままで焼いたところ、思わぬよい結果がでたこともあります。
エピソードをかけば、素人陶芸ゆえ、きりがありません。四、五 回の失敗ののち、一、二割がどうやら焼けるように、なりました。
南禅寺や、京都美術館の前、それに大原の田んぼのあぜ道、いたるところに焼物を並べて、テキ屋の兄さん方や、おまわりさんらに心の中で、ちょっとえんりょしながら、ずぶとく商売と云おうか、 みせものと云おうか、そんなことを始めたのは、焼物をやりだしてから三カ月目頃のことです。
焼物の世界では、土もみ何年、ロクロ何年とかいって、まず技術をと......。
それは、確かに大事なことと思います。しかし、私の中で重きをしめるのは、陶芸そのものというよりも、何かから発するものであって、それがたまたま、土いじりということに出くわしたにすぎないのです。まったく自分のすきかってなことをやるのですから、焼物の世界での師弟関係など、なりたとうはずもないし、また人に教わる技術を、必要ともしなかったのです。
自分が、その漠然とした何かを、気にしだしたのは、高校の終りごろ絵かきになろうと思ったこのころのことです。がむしゃらに絵をかきつつも、何か自己の中から、そんな自己を追求する気持が、 つのってきて、ついには絵の方をおいておいて、禅門をたたくにいたったのです。頭をそり、衣をまとい、一切を禅中心とした小僧生活へと入っていったのです。
四時半起床、座禅、お経を読み、作務(そうじ、その他一切の雑用)そんな生活の何カ月間が、すぎました。が、それにもあきたらなくなり、今度は、行脚修行にださせてもらいました。それは、自分自身の葬式代だけを懐におさめ、お寺にとめてもらったり、時には野宿をしたり、山に少しの食料をもって、何日間か座禅をくんだこともあります。しかしそれらの行も、絵をかくうえでは、自分自身のにげ道、逃げていることでしかないと、おもい、二年たらずで 小僧生活に終止符をうちました。それでもなお、人間の内なるものから発する何かと、ものを造ることから生じる何か、この二つの何かが自分の生きるうえでの根本になっているのです。その根本にもとづいて、一年半ほど前、奈良市の東のはずれ、水間と云うところに、千坪あまりの山林をわけてもらいました。小雪のちらつくころ、 山の下刈りを始め、道を作り、地ならしをして、そこにまず十坪ほどの小屋を、つくることにしました。材料は古い材木や、かわらを集めて、大工、左官、屋根屋、それらすべてのことを二、三人の友だちに手つだってもらったりしながら、本職の人たちの手はかりずに、どうやらできあがりました。
それら小屋を造ることも、絵を描くことも、焼物をすることも、 売りにゆくことも、自分にとっては同じ一つのことなのです。これからも、内なる神と、もの造りから発する何かを探しつづけてゆき たいと、想うのです。