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KAMIYA ART is a leading contemporary and modern art gallery, representing one of the most important Japanese post-war artist Yuichi Inoue (YU-ICHI) 井上有一, Morihiro Hosokawa (細川護熙) and Shiro Tsujimura (辻村史朗).

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器と心 (4/4)

若き日の辻村史朗が残した手記。茶碗を作ることを志した若き日の辻村史朗が感じ、考えていたこと。45年以上の月日が流れた今も、同じようにモノづくりに向かう。

 

器と心 辻村史朗

PART4

この日本で育ち、この地面に身をおき生きていくこと、それがすなわちたった一つの変えようのない方向であり、大河の運命の流れであるとすれば、さらにその中心を通る一すじの流れに目をこらし、耳をすましていく。過去に生きた人々も、その流れを私に伝え、そしてまた未来へと、たえることのない連続運動なのです。

人の手で作られたものが、作った人の手をはなれ、考えもおよばぬほど時代を越え、場所を越えて、ひたすら人間の内なるところを流れつづける何物か、時代をとわず変わることのないその内なる流れを、そっくり一つの器に含みこんで表現し得るということに、おのずと、私がいったい何をどうしようとしているのか、なぜこのように生きているのか、という質問の答を見い出せるようにおもうのです。

 人が人として地球上に生まれてのち、いく千年も無意識の領域において人の心をはぐくんできた変わることのないこの流れに目を向けながら、この先も手さぐりで自分なりに進むしかないのです。意識をぬけえたところにある、あの大井戸茶碗が表現しえた大母性大慈悲心、善悪すべてつつみこんでなお静かなるもの、そういう状態が、私の手仕事である土いじりの中でも表わしえたらと、つまりは何を作りたいのかといえばこの心の状態以外にありえないようにおもうのです。だからといって、あの大井戸の形だけをまねても、何もならぬし、それを見たときに心に生じたことと、ずーっと以前からもやもやと自分の内側にひそんでいてそれを見たことにより、ぐいと強くひきだされたものを土いじりの中で明らかにしていくしかないのです。どうも明解な答にはならぬようですが、ある作品がすばらしかったからその作品に近づきたいというような具体的な方向は、何一つ私にはないわけです。この日本で育ち、この地面に身をおき生きていくこと、それがすなわちたった一つの変えようのない方向であり、大河の運命の流れであるとすれば、さらにその中心を通る一すじの流れに目をこらし、耳をすましていく。過去に生きた人々も、その流れを私に伝え、そしてまた未来へと、たえることのない連続運動なのです。

しかしあくまで、白いキャンバスに絵を描くのは、自分であり、土くれを器にするのも自分でしかないのです。作りだす作業はいつの時代もゼロからなのです。

 人間が造りだしたものの中には、過去を土台にして、さらに前進してゆく科学のような分野もあります。電気が発明されると、さらにはあらゆる数の電化製品が作りだされ、さらに、さらに予想すらできぬ発展ぶりです。土台はずんずん積み重ねられてゆくのです。 ところが、人の手仕事は科学のようには、いかないのです。人の心の表現方法は、常にゼロから出発していくしかないもののように、おもいます。材料などに関していうならば、いろいろと開発もされ、 たとえば絵画の世界では、絵の具、キャンバスと多種多様の材料が売られています。陶芸の方面でも、電気の利用、ガス、重油、釉薬などと、つい最近までにはおもいもよらなかった材料が手にはいり 利用できるのです。しかしあくまで、白いキャンバスに絵を描くのは、自分であり、土くれを器にするのも自分でしかないのです。作りだす作業はいつの時代もゼロからなのです。土くれを茶碗にしたり、壷にしたり、単なる土くれは、古代も現代も土くれでしかないそれを人はいじりながら、あらゆる形体が生みだされ、こわされ続けてきたのです。そこでは科学のように、過去の足跡を土台にして、確実に一歩前へとすすむ方法などなりたちえないのです。たまには、 何代にもわたって一つの彫刻を完成したり、何代にもわたって守られつづけている工芸界もあります。しかし伝統工芸でさえも、守られつづけているのは方法などであり、作る作業はあくまでゼロからといえましょう。

人間が意識の衣をはぎとった状態での手仕事に関わっている時、 古代の心も、現代の心も一直線に結びつけられるとおもうのです。

 人間が意識の衣をはぎとった状態での手仕事に関わっている時、 古代の心も、現代の心も一直線に結びつけられるとおもうのです。 雨にぬれ、風の音を聞き、年月はつぎつぎに多くの人間をのみこみ、 人の心さえ、その衣の下におしかくしてしまったかにおもえることもあります。過去には限りなく澄みわたっていたはずの空をよごし、病をなおす医学があると思えば、病をつくる科学も同時に在り、 その複雑で目まぐるしい中で、ともすればわすれ去られそうな、あまりに漠としたことを、とりとめもなく書いてしまいました。

辻村史朗作 大井戸茶碗

辻村史朗作 大井戸茶碗

 なぜ器を作っているのか、はたしておもっていることのいくらかでもかきえたのだろうか、はなはだ疑問になります。言葉で表わすことはむずかしく限りがあるようにおもえてなりません。

 ゼロから出発しだした土いじりが、どこまで自分の内を自在にかけまわり、広がり得るのか、構えることなく生きていきたいものです。(終)